聖堂案内シリーズその27


世界平和記念聖堂被爆した十字架

被爆した祭具

解  説

 「そして、八月六日がやって来た。美しい朝であった。空には一点の雲もない。
  ・・・・・・・
  八時少し過ぎ、またプロペラの音が聴えてきたけれども、警報は鳴らなかった。私は 
飛行機の様子が見たくて、階下に降りて外へ出ようと思い、立ちあがった。机の傍に立って、部屋を出ようとした瞬間は、ちょうど八時十五分であった。
 この瞬間、まったく突如、不思議な光りが家の内と外で光った。それは稲妻にもたとえられるが、実はまったく同じものではない。わたしも稲光りとは思わなかった。しかも、その朝は雷の来るような大気現象でもなかった。私には一体何だろうと、瞬間的に自問するだけの時間があった。一秒ぐらいのものであった。
 次の瞬間は、説明するのがむつかしい。
 建物全体が、大音響と共に崩壊してゆくようであった。たちまち部屋は真暗になった。光線は音波よりも速く、爆発音が聞こえる以前に、すでにその効果は届いていたのである。暗闇は決して光線のために眼がくらんだのではなく、周囲に落下してきたものの埃のために、視野が遮られたか、あるいは爆発の煙のためかとも考えられる。窓・ガラス・枠・壁・天井・家具など、それこそ建物の骨格以外のすべてが、衝撃で壊れ、大半が崩壊した。
・・・・・・・ 
 私は生命は助かったが、全身血まみれの負傷をしていた。周囲を見まわしたが、なお薄暗くて、何一つ見えない。聖堂も見えない。しばらくして塵埃がおさまり、明るさを取りもどしてみると、聖堂は完全に地上に叩きつけられていた。この建物は付近の民家と同様の建て方であったから、ひとたまりも無く倒壊したのであろう。それにしても、その中に住んでいた三人の神父は、どうなったのであろうか。死んだか!と、頭をかすめる。外に出たのは私が最初であったから・・・ややして、神父の一人が、血まみれの顔をして出て来た。そして次、そして最後の一人が出て来たが、最後の神父がもっとも重傷であった。這い出ることはできたが、出血激しく顔面蒼白、まったく死人の顔である」(1)

 これは、「昭和二十年八月六日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるし」(2)として世界平和記念聖堂を建てようと志したフーゴ・ラサール神父さんの被爆体験記です。
 1945(昭和20)年8月6日、幟町カトリック教会では、四人のドイツ人イエズス会士が宣教活動に従事していました。

   フーゴ・ラサール神父(帰化名 「愛宮 真備」当時47歳)
   ウィルヘルム・クラインゾルゲ神父(帰化名 「高倉 誠」当時39歳)
   フーベルト・チースリク神父(当時31歳)
   フーベルト・シッファー神父(当時30歳)

 被爆した十字架や祭具などが、世界平和記念聖堂の正面入口の右奥の洗礼盤が設置してある小部屋に陳列してあります。
 焼け残った「天主公教会」、「カトリック教会」と刻まれた二本の門柱が、現在の聖母幼稚園入口に立っています。

  (1)「戦争は人間のしわざです(教皇来広10周年記念被爆証言集)」カトリック正
     義と平和広島協議会編 37頁〜39頁
  (2)世界平和記念聖堂「聖堂記」



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