広島教区世界平和記念聖堂50周年企画
    ルーメル神父  2003年12月13日講演 世界平和記念聖堂にて、


 ただいまの紹介に預かりました。ルーメルでございます。この話については実を言うと趣旨に関して、電話だけで交渉があったのですが、87歳で耳が遠くなっているし、いろいろ誤解がありまして、深堀神父さんから2−3週間前に今回の事を書かれたチラシが届いたのです。そのチラシには12月13日から講演会があると書かれていました。しかし僕の手帳に2004年2月22日の講演の予定はあるのです。12月13日の予定は手帳にないのです。先にこの講演会について話し合ったときには2回広島に来て話してほしいと・・聞いたはずですが、今ようやくはっきりしてきました。2回の講演で1時間半の話の種をどこから求めるか・・苦労しています。
 話の趣旨は大聖堂50周年記念があるという。その大聖堂が出来るまでに苦労した人たち、とりわけラサール神父さん(愛宮真備神父)はどのような人間であったかについて話します。

 ラサール神父さん本人は1990年七夕の日(7月7日)帰天なさいました。彼と付き合いしていたものも思えば・・小生ぐらいかな。みんな先に逝ってしまったね。ゴーセンさんもチースリク神父さんもいなくなりました。もういないね・・広島と縁があった人は・・私がどうしてこの歳まで生き残っているのは、わかりません。
 今日の話ではラサール神父さんとの付き合いということを、皆さんは聞きたいとおもいます。そのためにはどんな風に話をしたら良いのか・・・・。

 彼の残した20冊ばかりの本を全部読んだわけじゃないのですが、幸いにして98年・・今から5年前に出されたオーストラリア人ウースラ・バーツという女性が出版した本があります。ラサール神父さん弟子の一人であったようです。私もインタビューされて会ったこともありますが。イエズス会の方で聞いた話ですが、1000万だして日本に来てあっちこっちで資料を集め、まとめ出版した本だそうです。一応学者の立場で、「ZEN フーゴ・愛宮真備・ラサール」という本を出しています。
 私は大学で34年ばかり教鞭をとって、教えようとしたのですが、大学教授の悪い癖は・・種明かし(文献)をするということ。来年2月22日に予定していた話を急に10日間で準備しなくてはならなくて、この間に国際会議などがありまとめる時間がなかったので話がまとまりません。バーツさんが出された本を日本語に訳して出してほしいのですが、その中で出ている大きな間違いだけは訂正して日本語訳の本を出していただきたいのが、私の注文です。
 いろんな資料を調べたのですが、SJハウス(東京の上智大学にある修道院)の中でゲッペルト神父さんがロヨラハウス(イエズス会の老人ホーム)に移る前に一緒にいろんな資料を集めました。
 当然ラサール神父さんもわれわれの修道院の所属だったものだから、ラサール神父さんの最後の十数年間 彼が死んだときまで集めていた資料はSJハウスの地下室にあります。彼は熱心に日記も書いています。ずーっと昔から、珍しいぐらい書いています。彼の資料は何千・何万ほどあります。出した本の原稿とか、世界至る所歩き回った・・南米・北米・インド・ネパール・スペイン・イタリアはもちろんのこと・イエズス会の本部の会議も参加したし、それなどの莫大な資料が残っています。 その資料を整理するにはとても時間がかかります。私自身先も調べる気はありません。
 さらに禅は彼が有名になったきっかけです。ラサール神父さんが世界的に有名になった・名声を得たということは、世界平和記念聖堂の建設というよりも、どちらかというと禅で有名になりました。キリスト教的禅というか、カトリックの禅というのでしょうか、その国際的な運動を起こしたために彼の名前が知られるようになりました。

 「ZEN」にけちをつける・・悪いのですが、ドイツではラサール神父さんが13年前になくなる20年ほど前、今から30年前、禅の流行がピークに達しました。ある統計によるとドイツだけでも30人ばかり「禅老師」と自称する人がいるそうです。よく注意してください。自称する、自分がそう言っているのだということですね。本当にだるま大師の系統を引いているかどうか、それは保障がありません。流行っていましたね。まだ今でも流行っていますが、少しは下火になったようです。禅の本が売れるのです。ラサール神父さんがドイツで確立したいろんな資料・伝記など、悪質な出版業の人が握っています。その悪口を言ってはいけないのですが2人のカトリック出版者で活躍している、職員でなく、フリーランスでしょう。さきほど説明したのですが、ラサール神父さんはイエズス会です。イエズス会としては、本を出す場合は契約をします。原稿料が入ります。売り上げ料金が入ってきます。私たちイエズス会士なるものは収入のすべては宗教法人のイエズス会に入るものという遺言を作っています。遺言に日付がついています。その後にラサール神父さんがサインしてもらい、一切の版権は譲ってもらったというのです。ドイツでは裁判まで起こしたのですが、イエズス会は負けました。このZENの本に関する利益は、個人のものになってしまいました。なおかつ、その人たちは日本のことを知らない人たちばかりです。
 当然日本のことにしてもでたらめなことを書いています。でたらめのひとつは・・具体的になります。1945年8月6日午後1時に長束のイエズス会の修道院に通じる街道に二人の外人がリヤカーで(一人がリヤカーを引っ張って一人が押して、リヤカーの中に4人乗せられた) 原爆で被災した人を長束の小学校の救護所に連れていっている絵があります。リヤカーを押し引っ張っている外人の一人がラサール神父さんということになっています。この絵を描いたひとはしもむらという中学校の先生でした。(下村儀三さん・NHK原爆の絵展)。ラサール神父自身の言葉として、6日の昼にリヤカーに乗せられて、長束に運ばれて、安らかにベットで寝ていると書かれています。しかし全部うそ!丸っきりのうそ。どうしてラサール神父さんの言葉として乗せるか!わからないけど・・このリヤカーを引いている二人の神父はラウレス神父と私です。しもむらさんはそのことがわかったので、絵を下さいました。ラウレル神父さんは背が高く、力持ちで、リヤカーを引いています。私は後押しをしているだけで・・。
 原爆の当時の細かいことはどうでもよいと言われれば、それまでなのですが、経済主義というか立派な本は売れます。印刷物になった資料はどこまで信頼できるか!ということまでも、よっぽど注意しなければならないということです。当時の生きていた人たちは死んでいますし、はっきりした間違いのない記録を残したのはチースリグ神父、「御こころの使徒」の編集長を長年されてこられたチースリグ神父さんと、当時長束にいた、上智大学の哲学のシーメス神父さんの記録もあります。シーメス神父さんの記録は、ワシントンに送られました。ワシントンの機密資料として保存され、今は公開されています。
 
 ラサール神父さんと私の縁は何で呼ばれたか、よく分かりませんが、皆さんによく理解してほしいことは、私は禅を組んでいません。ラサール神父さんの国際的な名声の種となったことは、彼のキリスト教的な座禅ですね。不勉強だったのか?足が痛かったからか、私は禅を組んでいるわけでないし、禅の体験とか禅の主要な話を聞きたいなら、提案したいのですが30年間今でも禅を組んでいるのはイエズス会士のリーゼンフーバ神父さんがいらっしゃるし、日本人の門脇神父さんもいらっしゃいます。門脇神父さんはラサール神父さんのインスピレーションを受けています。 神学生のころから知り合っていたのですが、かれは軽井沢で新しい道場を建てました。冬になると東京に下りてこられるのですが、昨晩お会いして、ラサール神父さんの話を頼まれたけど、門脇神父さんはラサール神父さんとどのような縁があったのかと聞いてみました。具体的にラサール神父さんは、悟りは認められていたのでしょうかと聞いたら・・彼は笑いました。彼はみとめられていたけど、それを認めた山田老師はいいがげんに悟りというよりは、禅のひとたちは見正という専門用語をつかっています。一般的には悟りのほうが通じやすいのですが。それと老師・・禅を指導する人・・山田老師からラサール神父さんも認められて、見正という禅の黙想会のようなものを指導する許可を受けていました。ラサール神父さんがいくら望んでも老師の資格は与えられていなかったと、門脇神父さんが話されていました。ラサール神父と禅について専門家としてお聞きされるなら、私は的外れとなっていることをお断りしたいと思います。
 
 大聖堂の建築に関しては、私は直接関係していなかったです。わたしとラサール神父さんとの付き合いはそれより、遡ります。私の生まれは大正5年ですから、87歳になったばかりで・・そのころイエズス会はいろんな管区に分かれていました。ドイツはその当時3つの管区がありました。ラテン語でprovince(管区)と言います。東・西・北・と管区が分かれていました。私が北管区の修道院にはいったのが昭和10年。18・9の若かりし頃、そのときにラサール神父さんはすでに日本にいらしていました。ラサール神父さんが日本に来たのは昭和4年1929年。どこでいつどのように日本語を覚えたかさっぱり、わかりません。北ドイツ管区はオランダのフアルケンブルグというところに神学校がありました。かれも当然そこで神学を学んでいましたが、彼が大正時代の終わりごろ神学校で学んでいた頃、日本からイエズス会士の若いものが神学を勉強していました。その一人は六甲学院の創立者の武宮神父さんでした。広島教区長だった荻原神父さんは卒業したあとだったと思います。呉教会の主任だった真田神父さんも学んでいました。
 フアルケンブルグの神学校は日本での宣教を行うことをはっきりしていたので、ラサール神父さんは日本に来る前に神学校で日本語を勉強する機会があったと言うことです。
彼の日本語はまあまあですよね。少々癖がありました。私は広島でラサール神父さんの秘書を2年間勤めていたものですから、彼の日本語の癖は聞きづらいものがあったので直すようにしたこともあります。四旬節になりますとラサール神父さんは「ごじゅうなん」の話をするのです、御受難。いくつかのかわいい癖がありました。しかし、滑らかできれいな日本語ではなすことが出来ました。
 イエズス会のフアルケンブルグの神学校・・1895年に出来た神学校ですが、そこで彼は学びました。その当時日本に行くにはドイツの神学校だけの経験ではだめなのです。彼は哲学と神学3年と4年計7年勉強をしたのですが、哲学2年をフアルゲンブルグの神学校で、一年をイギリスの哲学部の神学校で学び、神学をフアルゲンベルグの神学校で2年学びました。そしてイギリスのオックスフォードの近くのカレッジで神学を学びました。神学の4年生になる前に司祭叙階というイエズス会の特別な特権が当時ありました。今は神学を4年学ばないと司祭叙階は認められませんが、当時のイエズス会は神学が3年終わってから司祭叙階が許されていました。
 そのような養成を受けていたラサール神父さんですが、彼が日本に渡来したのは昭和4年です。日本は布教地帯と言っていたのですが、日本のイエズス会が依頼されている事業・・福音宣教の事業の中心は上智大学(創立1913年 1928年に私立大学として認可をうけました。)でもそれだけではなかったのです。
 1923年大正12年・岡山 鳥取 広島 島根 山口の5県・・いわゆる広島教区に福音宣教を依頼されました。広島教区も北ドイツ管区が担当しているミッションでした。ラサール神父さんが日本に来た頃は、そのぐらいのミッションだったとおもいまいます。中心的な事業はあくまでも上智大学ですから、まずは最初に上智大学に派遣されています。若手のイエズス会士・生まれは1898年ですから、日本に来た年が1929年・・31歳ですね。31歳の若者が日本に派遣されてきて、心が燃えています。日本全国が、そのうち必ずキリスト教の国に変わるだろうという希望に燃えていたのか、よくわかりませんが、・・。  
 ところでどういう仕事をしたかという話は、私はこの隣の建物(旧司教館・現ラサール会館)でラサール神父さんと2年間共に寝起きしていたものですから、直接聞いた話です。上智大学の中のイエズス会修道院の副院長さんが周囲の細かい運営管理を担当しているのですが、修道院の院長はペーター クエンブルグ神父さん(オーストリア出身で貴族の出だったのですが、革命の後で貴族制は廃止されて伯爵と言う称号がなくなっていました。)でした。
 その伯爵院長のもとに、日本についたばかりのラサール神父さんが副院長になりました。ラサール神父さんはその副院長の仕事が大嫌いだと直接話をききました。クエンベルグ神父院長は大学で倫理学を担当していました。日本語はほとんど出来ないのです。ドイツ語で講義したのです。
副院長なるものは毎朝8時になると院長の部屋に行き、一日のアドバイスを受けなければならなかった。ラサール神父さんの話によると一日のうち一番苦しい時間であったと言うことでした。クエンベルグ神父は非常に几帳面な方でした。1から10まですべてアドバイスをされたのですが、ラサール神父さんは1から10まで言わなくても判っていたのだそうです。言うまでもないのです。本当は1分で話が終わるはずなのですが、けれどすべて1から話していたら15分もかかるのです。ラサール神父さんが座禅をし始めて悟りを受ける前の話です。悟りに達してからはそのような話はしなかったとおもいますが。上智の中の修道院での仕事はつらかったといっていました。
 ZENを出版しバーツという女性はラサール神父さんを崇拝しているから、その話は本に載せない・・まあ私ぐらいしか知らない話なのですが。
 もうひとつ話をすると、修道院の外での仕事は上智でした。上智の中での仕事は当たり前なのですが、ドイツ人だからドイツ語を教えていたのです。当時は2年間の予科と3年間の学部がありました。おまけに彼が来日したのは昭和4年です。
 それから3年経たないうちに靖国事件が起きました。もう一度来たときに詳しく話しましょうか。学生数がすごく減るのです。軍部は上智を潰そうとしました。予科は昭和8年の3月の志願者は32名。志願者が減少した理由は配属将校がいなくなったから。軍部は直接大学をつぶすことはしないのです。文部省は守っているし、畑山という文部大臣が守ってくれたのですが。しかし軍部は遠回りの道で、配属将校を引き上げました。みなさんこの意味わかるのでしょうか?配属将校の制度は中学校にもあったのです。師範学校・高等師範学校・大学にかならず配属将校を軍部から送ってくるのです。その配属将校は軍事教練をおこないます。出席までとります。ちゃんと軍事教練を受け、卒業したものは、特権がありました。士官候補者・はっきりした将校候補の資格、もっと大切なのは兵役が一年で済む。ほかの人は3年兵役につかなければならないのです。わかりますか。配属将校がいなくなったら、特権がすべてだめになる。学校としても全滅です。学生は誰も来ない。理屈の上では天皇陛下万歳で鮮血をほとばしるけど全部うそ・・。とにかく学生がこないのです。そのことに関心があれば別の折に話したいと思いますが。何度が靖国神社の参拝が問題になったのです。いまでも問題になっていますが。カトリック教会の内部でも問題になっています。上智の学生が軍人の資料館があって、そこにいくには靖国神社があって最敬礼と言ったら3人の学生は、ボーっと立って敬礼しなかった。配属将校はそのような非国民の教育をするような大学は知らないといって学校から引き上げたのです。もちろん軍部の支持があって引き上げたのですが、その後バチカンの公使がローマと折衝し、司教会議でもいろいろ話し合ったりして、靖国神社の参拝はかまわないだろうということで問題は解決し、配属将校が戻ってきました。そして上智は生き残りました。そういう事件がラサール神父さんの上智時代にありました。
 それだけではないのです。彼は、学生は好きだけど、当時大学に進学する学生と言えば年齢人口の2−4%の進学率でした。エリート階級ばかり。上智は男性ばかりだし、そのようなエリート教育を行うことは嫌だといっていました。キリスト教的な愛の精神を学生に伝えたい・セツルメントを作ったのです。どこまで管区長の許可があったかはわからないです、昭和7年、上智セツルメントの建物が最初に出来てラサール神父さんもそこに移ったのです。昭和11年建物が完成するまでは三河島の貧民窟 今はありませんがそのような社会に住み込んで活動をしたのです。チャリティ音楽会を開いたり寄付を集めたりして、資金を集め土地を買い建物を作りました。何人かの学生と一緒に住み・・その一人は広島で活躍した小出哲夫神父さん 広島出身の伊藤保もその一人ですね。広島とは割りと縁があるようなものです。小出神父さんは下関出身でした。そのような福祉事業をラサール神父さんは始められました。
  日本の昭和初期の歴史を高等学校で学んだはずです。昭和元年に配属将校制度が設けられたこと。先に話したことです。配属将校を学校に送り、軍事教練をし、そして特権を与えるそのようなシステム。そのほかには思想統制。左翼の思想は弾圧されてきた。共産主義者の学生は何百・何千の学生は警察に捕まって、牢獄に入るのです。そのような学生は東大出身がほとんどなのです。頭のいい人ですね。東大だから。そこでセツルメンツ運動が始まったのです。どこまでラサール神父さんはわかっていたのか、資料がないのです
 セツルメンツは左翼の青年の溜まり場です。憲兵と特高課 思想統制をする警察の課があったのですが。軍部と憲兵は別にあるのですが、とにかく左翼の溜まり場を怪しむのです。このへんは仮説を立てます。証明はできません。その年・・昭和7年上智で軍部がメディア 新聞を使って起こした靖国事件がまったく同じです。ちょうどセツルメンツが出来た時期と同じです。証拠はないのですが、上智のセツルメンツは東大並みに左翼が動くような活動の場として、軍部が見ていたんじゃないかなと考えておりますが。時期があまりにもぴったりあっているのです。先の靖国事件の話も加える必要があります。3人の学生が靖国参拝を断ったから発生した事件と言いますが、うそです。3人の学生が参拝を断ったと新聞に書いてありました。5月3日に、事件がおきたと書いてありましたが。
 秋になって各新聞に同時に参拝拒否事件があったと記事になって出ました。われわれ神父たちも信じ込みました。ローマにそんなことがあったと報告しているのです。根拠がないのです。私は十年以上も前、この時の学生に会いました。3人のカトリック信者は神社の前を通ることを避けたのです。靖国神社の前を通ったこともない。敬礼を拒否したこともないと。
 ラサール神父さんはもちろん左翼どうのこうのでなく、彼と一緒に協力した学生もカトリック信者で、イエスさまの愛、社会的な意識を深める、そのように学生を指導するためにセツルメンツを作ったことは間違いありませんが、軍部からみたらそのようには見えないのです。反政府の活動場所と見ているのです。セツルメンツの起源はロンドンだったと思います。ロンドンで勉強した東大の学生が日本に持ち込んだのです。上智はそのまねをした。ラサール神父さんは思想的な背景はわかっていたかもしれないけど・・。
 若いイエズス会士が日本に送られてくる。第一回目は昭和8年栄光学園の創立者で、初代校長になったグスタフ・ホス神父で20歳の若かりし頃日本に送られてきました。すぐにラサール神父さんの社会事業に関心を持っていました。もう一人彼と一緒だったのはウールフ神父さん。その次の年はストレット神父とチースリグ神父のふたり、その次はロイシェル神父さんとシファー神父さんと栗山神父、その次の年にラウレル神父と私とエヌエカル神父の3人。
 私とラサール神父の出会いは 昭和12年12月24日の夜。セツルメンツでの出会いでした。セツルメンツは保育所も出来ていたし、舞台もありました。子供たちを集めて、楽しいクリスマスの集いをラサール神父さん中心に行っていました。66年前の話ですが、今でもそのときの情景が目の前に浮かんでくるのです。ラサール神父さんはチェロを舞台の上に持ってきて、チェロの紹介をするのです。子供たちは3・4・5歳の子供たちばかり。小学生もいたかもしれません。「皆さんはバイオリンをしっていますか?」と子供たちに聞いて、子供たちは「はい はい しってるよ」と答えていました。「これはなんだろうね」といいながら、チェロを見せながら「これはだぶだぶ太っていますが、バイオリンのおばあさんです」といいながらチェロを紹介していました。チェロをひいたりして、楽しいクリスマス会でした。
 昭和12年のラサール神父はセツルメンツの所長の地位があったかは、覚えていませんが、彼の人生は大きな転換期を迎えていました。昭和9年から10年にかけてドイツのイエズス会の管区長クライン神父は、日本の宣教が振るわない。洗礼を受ける人も少ないし、視察のため日本に来られた。彼はすごい日本びいき。彼が管区長をしているとき、70人のイエズス会士を日本におくりました。その後はほとんど来なくなったのですが、そのときの生き残りの22人の一人が今ここにいます。
 そのクライン神父・・6年前ぐらいになりますが、彼にあったのです。106歳といっていました。イエズス会の歴史には前例がないぐらい長生きです。耳が遠くなっていました。ラサール神父さんもクライン神父によって日本に送られただけじゃないのですが、クライン神父さんが昭和9年日本に来た時に、日本のミッションの長、日本管区の管区長・・地区長かもしれません。管区長を選考するにあたって、若い神父に誰にしたいか聞いてみたところ、ラサール神父がいいという多くの支持がありました。社会事業ですごい人気があったので、非常に統制管理する仕事が嫌いだったラサール神父さんでしたが、日本の責任者に任命されました。昭和10年か11年のことです。生まれは1898年・・38歳で日本の管区長に任命されました。これも前例のないことです。まだ最終誓願をたてていないのです。そのぐらい、ドイツや日本のイエズス会で高く評価されていました。
 管区長になって三河島の建物で住むわけに行かないので、上智の敷地にあるイエズス会の建物に移ってきて、上智大学と広島教区の管理・・広島教区は20人ぐらいの神父だったと思います。教会も岡山・倉敷・玉島・福山(福山はしばらくあって無くなりました。)広島・山口・宇部 宇部は始まったばかり 下関・松江・鳥取・米子だけですね。ラサール神父さんにとって管理事務的な仕事は大嫌いでしたね。東京のど真ん中にいることもきらいでした。地方・・広島地方に出かけていって、管区長館を移しましょうと提案しました。広島教区長館は広島でなく岡山にありました。 当時の幟町の教会は・・バラックのようなものですね。教会の部屋は30枚ぐらいの畳で、ふすまがあって、また20畳ぐらいあって、ふすまがあって30畳ぐらいのたてものでした。今で言えば教会ではないですね。教区長の式を挙げるような建物ではなかったのです。岡山はすばらしい建物でフランス人が建設しました。本当に立派な教会があったのです。戦災で焼けましたが。司教座は岡山。戦争が始まるころに広島に移ってきたのです。ドイツ人のロス司教様でした。そこまではラサール神父と直接かかわりはなかったのですが、どうして広島教区に司教がいるのですか?それは教会法の問題です。最初に来た広島の司教は、ドウリン司教 かれはインドのボンベイで大司教だったのです。インドは英国の領土です。第一次世界大戦で司教でもドイツに帰されたのです。神父でもシスターでもだれでも本国へ送り返されたのです。ドイツに戻っていた司教はやはりミッションに希望を持っている、たまたまイエズス会は広島教区を受け持つことになりました。その大司教を広島に送るため、少し位置を高め、司教区にもっていきました。イエズス会の管区長官を移したいラサール神父さんはどうするか・建物を整備しました。皆さんがまだ記憶にあるとおもいますが、旧幟町教会の司祭館でした。しかし皆さんが覚えている建物は原爆によって焼けたのです。戦後そっくりに建てなおしました。昭和11年に建てた建物とそっくりなのです。そこへラサール神父さんは移ったのです。当時は司祭が少ない時期です。そのときのラサール神父さんの肩書き 地位は、教会の役職では総代理と訳されます。司教の総代理になりました。
 日本人の中でイエズス会に入る若者たちがいました。出口さんとか小出神父さんとか、若干いました。入会しても徴兵ですぐに軍部に取られ、戦死した方もいらっしゃいました。戦死した入会者のお墓が長束にあります。大国さんとか、何人かいます。日本人の修練者は日本の中で育てようという強いラサール神父さんの願望がありました。願望じゃない、かれは頭の中にあるものは必ず実行に移すタイプでした。ですから昭和11年あたりに長束に土地を買って、修練院を作りました。私はノビチャート(修練)の最後が残っていました。長束でということでしたが、建物が出来ていないのです。そのことで私は幟町でラサール神父さんと一緒になりました。長束の建物はラサール神父さんの希望通りに本式の設計で昭和13年に完成しました。それまでの間管区長館は幟町教会の3階・屋根裏部屋のような部屋がありました。私たち6人は屋根裏部屋に住むことになりました。長束の建物が完成したのですが、道が整備されてなくて、毎週木曜日祭壇や家具に下の道から持ち運ぶという仕事になっていました。長束の建物は原爆で少しの被害だけでその当時のまま残っています。ご存知ですよね。幟町の信者たちは、日本式の教会の建物が大嫌いでした。その当時主だった幟町の信者は柴田えいじ・・文理科大学の化学の先生だったのです。ドイツ語の会話に熱心でした。ラサール神父さんに日本式の教会の不評は言わなかったとおもいますが。ラサール神父さんはキリスト教の土着化を主張する人でした。だから日本式の建物を作りました。聖堂も畳、修練者の生活の場所も畳で作られています。和式の建物。日本の文化にキリスト教が適合しなければならないという考えです。
 当時の幟町の主任司祭はワイセンフェルツ神父さんでした。ラサール神父さんが広島に来る前です。ドイツから3人の宣教師だが・・最後の組の神父が日本に来ました。広島に修練院が出来ているので広島に来ました。東京から出て広島に朝7時ごろ着く列車に3人が乗ってきて、ムー神父が広島駅に迎えに行きます。戻ってきたら7時にミサをたてる神父がだれもいなかった。おかしいので教会の中を調べたら風呂場の中で神父さんが死んでいました。ライセンフェルツ神父さんは44歳の若さで風呂場の中で亡くなったのです。体調が悪かったみたいですが、原因はわかりませんでした。そのあとメスネル神父さんが主任をしていました。そのあとラサール神父さんがこの幟町教会の主任を勤めるようになりました。だから実に忙しいですね。管区長 幟町主任司祭。司教区の総代理をされていたラサール神父さんです。
 ラサール神父さんは日本に来た以上日本人にならなければならない・・帰化することを考えていたのです。市役所にいって、帰化する手続きをとりました。日本のことどれだけご存知か聞かれたのです。いろいろ答えたようですが「三戸部の武士道」という本を読んだと答えたのですが、役所からはそれだけではダメと拒否されたみたいです。最初の試みでしたが。それでも希望があったので、神戸のドイツの領事館に行きました。確かバウザックという人でしたが、ラサール神父さんは日本人に帰化することを伝え、ドイツのパスポートを返さなければならない。バウザック領事は帰化する手続きの経験がありました。ブラジルでの経験でドイツ人のスパイは、ブラジルに帰化するのですが、ドイツの国籍は影で持っていた。ということを伝えられたみたいです。帰化する人はスパイと思われがっくりして広島に戻ってこられました。帰化したのは戦争が終わって3年後1948年でした。ラサール神父さんのはなしをふらっとしましたが・・。この辺で終わります。


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