山口由美子さん講演2004年6月12日の記録

 
山口由美子さん講演
 2000年の暮れだったと思うんですけど、一度広島に伺いました。今回は、事件後再び訪れました。駅まで入院しておりました病院の方が迎えに来てくださって、ほんとうに我が古里に帰ったような気持ちで、うれしくてたまりません。入院中ほんとうに良くして頂きました。佐賀に帰って、広島は原爆が落とされた地ということでしょうか、ケアーがとても心地よかったなぁと、改めて思いました。
 今私は、被害者支援に参加させてもらってますけども、この経験を通して、特別なことをするんじゃなくって、身近な自分たちの仕事の中で、どんな風に援助が出来るのかを考えていかなきゃいけないと思っています。
 紹介して頂きましたように、私は一主婦です。この事件に遭うまでは、洋裁を教えておりました。洋裁学校に勤めてその後、自分の家で家庭の主婦をしながら洋裁教室を主宰してたんですね。そして、事件に遭った為に洋裁が出来なくなりました。事件後、カウンセリングを受けたときに、あの子にも居場所があったら良かったね、と言ってくださる精神科のお医者さんがいらっしゃいまして、今は不登校の子供たちの居場所をやっております。
 事件のことをお話したいと思いますけども、その前に、この事件で亡くなられた塚本達子先生。先生のことをちょっとお話して、事件の話をしたいと思います。
 塚本先生と私は、一番上の子が今23歳ですけども、その子が4歳の時に出会いました。幼稚園に入るのに、ぐずぐずしていて自己表現がヘタな子だなぁと思い、幼児室があると聞いて伺いました。
 塚本先生は小学校に二十八年勤務されて、学校で子供たちと向き合って色んなことをしていこうと思うけども、校長や教頭は文部科学省のいうことを押し付けて来る。私は今の子供たちと向き合って行きたいのにそれがなかなか出来ない。そして、その子の本当の個性を伸ばそうと思ってがんばっても、子供を見ないで成績しか見ない親。そういう人たちを目の前にして、ここではダメだ。成績がでる前の幼児をつかまえて親子の教育をしよう、と思われモンテッソーリ教師養成講座を受講され、幼児室を主催してらっしゃいました。そこに私は、一番上が4歳、真中の娘が2歳と、下の0歳の子供を抱えて出かけて行きました。
 先生は、「子供は自分で生きていく力をもっている。親はそれを援助するだけでいい」そういう風に教えてくださいました。私はそれまで、私がどうにかしなければ、私が前をちゃんと歩いて行かないとこの子は育たない、そういう風に思って、一生懸命私の意志のとおりに子供を育てようとがんばっていました。例えば子供が、赤がいいなと思っていても、私が「白、こっちが良いんじゃない」て言ってしまったときに、母親の言うとおりに動かなきゃいけないかな、て思う気持ちと、「いや、ぼくは赤なんだけど」て思う気持ちで揺らいでいるのを私は見て、それを、ぐずぐずしてる子と見てました。だけど、幼児室で先生から色々教えてもらうことで、少しずつ我が子の見方が変わっていきました。
 一度こういう事がありました。息子が卵かけご飯をしようとして、卵を割りました。卵の黄身がくずれて割れました。息子は情けない顔、「お母さんもう一つ卵ちょうだい」。私は、もったいないが先に。「どうせ卵かけご飯するならくずすんだから、それを食べなさい」。息子はべそをかきながら、それを食べました。私はそれが情けなくて、塚本先生に「うちの子こんなことぐらいでべそかくんですよ。情けないです」て言ったら、私がおこられました。「あなたの子供は丸い黄身の卵が割りたかったのよ。どうしてもう一個卵渡せなかったの」「だってもったいないじゃないですか」「もったいないと思うなら、その卵は後で玉子焼きにでもしようね、って言えば良いことじゃない。子供は自分でイメージしてそれを達成する、そのひとつひとつの経験で人格が育っていくのよ」と教えてもらいました。だけど、そうじゃなく育てられてきた私は、頭でわかっていても、なかなかそう育てていけませんでした。
 子供たちは幼稚園に入る時点とか、小学校に入る時点とかで、「もう卒業ね」って言って先生の所へは行かなくなるんですけども、私自身が、なかなかそういう風に子供の側から見ることが出来ない大人だったので、勉強させてもらいにいつまでも通っていて、先生とおしゃべりをさせてもらいました。そういう風にしてずっとお付き合いをさせてもらっている中で、先生もクラシックが大好きで、私も子供たちに何か音楽をさせたいなぁ、と思って先生に相談して、音楽の先生を紹介して頂いて、子供たちもみんな音楽に親しむように過ごして来ました。
 そういう中で、福岡で、朝比奈隆さん率いる大阪フィルの演奏会があるというので、朝比奈さんが育てられた大阪フィル、そこに意味があるから是非聴きたいとおっしゃったんですね。私も、子供が音楽に親しむようになって、少しづつクラシックが好きになり、先生と約束して出かけました。
 私たちは、佐賀のバスセンターで待ち合わせて、12時56分発のそのバスに乗りました。しばらく先生と二人で色んな話をしていました。高速道路に乗ってしばらくした時に少年が突然立ち上がり「このバス乗っ取ります。荷物を置いて後ろに行って下さい」。丁寧な口調で言いました。私は本気にしませんでした。だけど、言われるとおり後ろに行きました。しばらくして、居眠りをしていて、気づかない方がいらっしゃいました。その方は佐賀から東京へ嫁いだ方で、お母さんかお父さんが病気になったので、佐賀に帰って看病されて、元気になられたから東京に帰る為にそのバスに乗ってらっしゃいました。疲れが出られ、少年のことを気付かないで居眠りをしてらっしゃいました。後ろに下がらないでいる人がいる、それを発見したときに少年は逆上しました。「お前はおれの言うことを聞いてない、後ろに下がってない」その方が気付いて後ろに下がられたとたん、首を刺しました。その時始めて少年が本気だったんだ、てことに気付きました。だけど、そんな人を殺したいとか、傷つけたいとか思って生きてる子供はいません。きっと何かつらいことがあったんだなぁと思いました。そして私は、気功の気ですね、気の勉強をしてたので、気を送り始めました。「少年の心が本来の心に戻りますように」と一生懸命祈りながら。
 しばらくして、バスの運転手さんも色々考えてくださり、トイレ休憩も必要じゃないか、と言ってくださいました。少年もその言葉には応じて、駐車場ではない道路の路肩に停めろ、という指示のもとに、運転手さんが停めてくださいました。そして、一人目の方が降りられ、その降りた方も、どうにかして中の状況を知らせたいと思われたと思います。なんらかの方策で知らせられたと思うんですね、バスの前に一台二台と乗用車が止まり始めました。それを見て、少年はびっくりして、「あいつは裏切った。バスを早く出せ」またものすごく怒りました。で、仕方なく運転手さんもバスを出され、バスが出たのを確認して、少年は、後ろに来て私の前に止まり、「あいつは裏切った。連帯責任です」という言葉と共に顔を切られ、びっくりして私は手で顔をおおったんですけども、両手首を切られ、後頭部を切られて、座席から通路のほうに転がり落ちました。そして座りこんで考えたことは、こんなにしなくてはいけないくらい少年の心は傷ついてたんだ、追いつめられてたんだ、ということを感じました。そして、私が死んだら、少年を殺人者にしてしまう。死んだらダメだ。そういう風に思い、あの時ほんとに転んでたら出血多量で死んでたんじゃないかなと思うんですけど、転ばないように、傷の浅い右手で体を支え、傷が深かった左手を肘掛に置いて、出血しないようにしてました。意外と自分でも冷静だったなぁと思ってます。
 私は、かなりの出血だったので、意識が朦朧として、よくわからない状態でおりました。色々問題を抱えてる子というのは、色んな症状を呈するもので、少年もかなりきれいにしてないと気がすまないような子で、私が通路にしゃがんでいるのが目障りなんですね。で、「おばさん、生きてますか」と呼ばれ、私は聞こえたから「はい」て返事をしました。「邪魔だからどけ」と言われ、ほかの乗客の方に足元に引き入れてもらい、その時はさすがにホッとしました。
 乗客が窓から二人逃げて、二回塚本先生が刺されました。短大生が二人乗っていて、乗客がまた逃げたら次はお前の番だ、と言われてた学生の友達の方が突然立ち上がり「見張りに立たせてください」と言って、見張りに立ったんですね。私は、窓から乗客が逃げたってことは座り込んでいて見えなかったので、なんで見張りなのかってことはわからなかったんですけども、ああいう緊張した状況のなかで、彼女が立ってくれたってことに感動しました。そしてその後、お茶などの差し入れがあったみたいですけども、その短大生たちが、少年の側に立って色んなお手伝いをしてくれました。
 広島に着いて、警察の方の怪我人だけでも出してくれ、という要望に対し少年は、「ピストルを持って来い」と要求しました。警察の方は時間をかけて丁寧に、ピストルは渡せないということを話されたんですね。少年はそれに応じましたが、「では防弾チョッキを持って来い」。警察の方は防弾チョッキをすぐ持って来られたんですけども、それが偽物だってことが少年はわかりました。それで、「本物を持って来い」と言いました。その間、かなりの時間待たされました。その時、短大生の子が、「防弾チョッキはよもってこんね。中には怪我人のおっとよ」と叫んだんですね。そしたらその少年は、「おれあんたんごと言う人すいとぉ」(あなたのように言う人好きです)そういうことを言いました。そして、やっと防弾チョッキが渡され、助けられるんですけども、私が自分の力で座っているのが少年は嫌で、「こいつしぶといな、殺してやろうか」と言いました。そのときも、その短大生の子が、「もう、よかやんね」ひと言、それで少年は気持ちを収めてくれました。
 あんな風に、バスの外からセンセーショナルにずっと映し出され、中は大変だろう、ていう風にテレビを見てた人は思ってたかもしれませんけども、中ではちゃんとそういう風な交流もありました。なんでああいう子がこんなことをしなきゃいけなかったんだろう、不思議でたまりません。だけどきっと、ありのままの自分を受け止められなかったのでしょう。もし誰かあそこで、「あんたなんしよん、こがんことしたらいかんやろ」、否定的な言葉を投げかけたとしたら、もっと彼は逆上したかもしれない。だけど彼の側に立って、そのままを受け止め、同じ若者だったからよけい良かったのかもしれないな、と思うんですけど。そういう風にバスの中ではちゃんと交流があってました。
 そして、私は無事助け出され、手術もうまくいき、ほんとに良くして頂いたなぁと思うんですね、顕微鏡などを使ってかなりの時間をかけて縫合して頂いたと聞きました。まぶたを閉じたら自分の流した血を見てた為でしょうか、まぶたの裏が真っ赤に見えてました。夫も付き添ってくれて、「がんばれ、家族もお前がいなくてもがんばってるぞ。お前もがんばれ」。私は、生きて、寝てるのがやっとの状況の中に、がんばりようがありません。そこに精神科のお医者さんが見えて、「山口さん大変だったですねぇ。おつらかったでしょう」と言ってくださいました。その言葉で、私のまぶたの裏の赤いのが段々とれていきました。  
 自分自身どういう目にあってるのか、正直わかってないんですね。目の前に展開している現実が日常なんですね。事件に巻き込まれて切られたのが日常なんです、私にとっては。傍から見たら異常なことかもしれませんけど。だから大変な時とかそういう時、きっと神様は、感情に蓋をしてくださるのかな。そういう風に思ったんですね。だからその蓋をいつ開けるのか、っていうことが、後でPTSDが出てくるとか色々そういうことなのかな。だから私がすぐ「大変だったですね」て言ってもらったことで、私の意識に働きかけてもらったのかな。「あぁ、大変な目にあってたんだ」っていう風に、逆に外から言ってもらうことでわかる、っていうような、そういうことが、ほんとここ、一年ぐらいでわかってきたんですね。それまでは、そうだったんだな、っていうひとつの自分の生活の流れの中でしか見れなかったのを、もう一回そこを振り返って受けとめられてるのかな、ていう思いがあります。
 だから、神戸の事件の時も、その時すぐ「大変だったね」「恐かったね」と言えばいいんだよ、てことをあの事件の後、カウンセラーの方がおっしゃってて、「あぁ、やっぱりそうだったんだ」、ていう風に自分の経験とそういう別の経験を重ねる事でわかっていく部分があったなと思います。私たちは「がんばれ」とかそういう言葉をつい言ってしまうんですけども、そういう言葉っていうのはなんにもならないな、届かないなってことを、我が身を通して思い、逆につらくなることもあるんじゃないかな。「がんばれ」っていうのは今現在がんばってない、てことなんですね。「がんばってるね」と言うのは良いかもしれないけども、やっぱり「がんばれ」と言うのは酷な言葉かな、というのをこの事件を通して思いました。
 私はなんでこういう風に少年を恨まなかったのか、とか色々言われるんですけども、私の娘は、小学校のときと、中学のとき不登校をしました。あの少年の顔を見た時に我が子の顔とオーバーラップしたんですね。広島に入院している時に、私は子供たちに「広島の病院まで出てきてお母さんの元気になった姿を見て」と電話をしました。そしたら、それぞれ自分の時間の空いたときに来てくれて、娘が来てくれたときに、私は娘に、「あなたが不登校をしてくれたおかげで、お母さんは少年を恨まないですんだよ。ありがとう」とお礼を言いました。感謝しました。もし娘が不登校してくれてなかったら、何でこの子はこんなことをするんだろう、と私はきっと理解できなかったかもしれない。恨んで生きる、っていう事ほどつらいことはないと思うんですね。すごいエネルギーがいると思います。私は、それを受けとめることで、楽に生きれているのかな、とも思います。
 小学校と中学校の時に娘は不登校経験をしました。小学校のときはクラスがとっても荒れていると聞いていたから、「そんなとこに行かんでいいよ」と受け止められました。そして娘の要求すべて受け止めて、一ヶ月ぐらい過ごしました。そしたら娘は「お母さん、私の心は針みたいに細くなってた。だけどもう太ったから大丈夫」、と言って学校に行って、「学校って楽しいとこだったんだね」と言いました。無事卒業したんですけども、中学に行くのに夢がありません。ほんとうに今の中学っていうのは大変なとこだと思います。管理、管理、管理です。思春期の一番自分らしさを発揮したいときに頭から押さえつけられて、勉強だけしとけばいい、部活だけしとけばいい、そういう風に言われた時に、本当につらい思いをする子もいると思います。そんな中で娘はまた行けなくなりました。私は、小学校の時は「良いよ」と受け止めたんですが、中学の時は受け止められませんでした。高校受験が気になります。せめて高校には行って欲しい。今の社会で中卒ではなかなか仕事が無い、そういうことを思い、親心ですが、勉強して欲しいという気持ちで受け止められなかったんです。でも、娘と色々向き合って話していくうちに、段々娘に任せられるように、私自身が娘によって育てられました。娘は後で、「私はお母さんに話を聞いてもらったから良かった、聞いてもらうだけでいい、答えは自分で出すから。あの少年はきっと、聞いてくれる人がいなかったんだよね。大変だったんだね」と言いました。私は事件のことを話すのに、娘の不登校のことを話さないでは皆さんにわかってもらえないと思い、娘に聞きました「あなたの不登校のこと話していい」。娘はしばらく考えて、「お母さんいいよ、もう私は乗り越えたから」と言ってくれました。
 今、不登校は、最初は問題だと言われ、その後どの子にもありえる。と言われ、そしてまた今、少し問題にされようとしています。同じ不登校でも、社会の受け皿が少しづつ変わってきています。学校に行けないというだけでほんとに苦しんでいる。この少年もそうだったと思います。これは、広島の方ではなかなか報道にのらないかもしれませんが、少年も、学校に行かなかった自分が、親からいつ見放されるだろうかと不安で堪らなかった。そして、精神病院に入れられた時、もう見捨てられた、そういう風に感じたと聞きました。ほんとにそうだろうな。親は自分の手で持て余して、仕方なく病院へ入院させたのだと思いますが、子供にとってみればそうじゃなくて、捨てられたという風に感じた。そこに、親と子の心のギャップというものをものすごく感じます。私たち親としていかに子供の側に立って考えていくかということを、親だけじゃなく、大人としてどう関わっていくか、ということを突きつけられた。今もこういう少年事件が沢山ありますが、そういうことじゃないかなと思うんですね。
 事件後、広島に入院している時に、少年のご両親も広島に来てらっしゃると聞いて、謝りに来て欲しい、そういう風に思ってました。でも結局広島にいる時は来られませんでした。佐賀に帰ってしばらくして、ご両親から手紙が届きました。「申し訳ありませんでした、そのうち良かったら訪問させてください」と書いてありました。そして、家に来てくださいました。突然だったのでびっくりしたんですけど、ほんとうにうれしかったです。上がって頂いてお話しました。私は、「私の子供も不登校でした。だけど、親しかいないでしょう。最終的な砦になるのは、親しかいないじゃないですか」とご両親に泣きながら訴えました。その時にご両親は、カウンセラーや学校の先生、精神科医、色んなとこをまわりましたけど、こんな結果になり申し訳ありません。とおっしゃいました。
 私は子供が小さい時に塚本先生と出会ってました。そして親というもの、どういう風に子供と接して行けばいいのかを、学ばせてもらってました。「子供の生きていく力を信じましょう、親が前を歩くんではなく、支えているだけでいいんだよ」って。だけど、あのご両親はそういう学びをしてらっしゃいませんでした。そして、お母さんは保健士で、この年齢になったらだいたいこのくらいの事が出来る、この年齢はこれぐらいの事が出来る、そういう風にわかってらっしゃるお母さんだったんですね。これぐらいの事が出来る、ということに子供を当てはめて育てて来られました。これはご両親の手記に書いてあったのを読ませてもらったのですが、ある時、お母さんは、子供に縄跳びをさせようと思った。うちの子はとっても不器用で縄跳びが出来ない。まず、手をくるくる回すことから始め、つぎに縄を地面に置いて飛ばせ、それから縄を回すことを教える。それが出来るようになったときの親子の喜びようは大変なものでした。と書いてありました。普通に読んだら、なんと素晴らしい親子だろう、と思われるかもしれません。それは大人側から見てです。子供にとってみれば、縄跳びを全然したくなかったかもしれない。それを無理やりさせられた。だけど、やっぱり親のことは大好きだから、親の喜ぶ顔が見たい、それで一生懸命やった。だけど、子供の側からもう一回見たときに、「ぼくは、縄跳びですらこんなに時間をかけないと出来ない人間なんだ」そういう風に受けとめたかもしれません。親は得意満面でも、子供に劣等感を植え付けてるかもしれません。ただ、私はこのバスジャックの少年の両親だけのことで言ってるわけじゃないんですね。私も実際そうやって子育てをやってきました。だからもう一度親子関係を見直してほしいのです。
 事件があって、私は、ほんとうに生きてるだけで良かった、と思いました。あの時死んだかもしれない、ほんとうに生きなきゃ、と思ったんですけども、意識がふうっと飛んでこのまま死んでしまうのかなと思った時もバスの中でありました。だけど、こうやって命があってもう一回家族に出会い、色んな方から大切にして頂き、そういうことで生きてる実感をもらい、生きてるってなんて素晴らしんだろう、と感じました。その時、私は、本当にしょうもない、ちっとも良い親でもない、良い大人でもない、たいしたことない私。だけど、私ってこれでいいんだよね、という風に自分自身を丸ごと認められるように変わったんですね。だけどそういう事というのは、頭を通してない分意識に入ってませんでした。
 家に帰って何ヶ月か経った頃、子供たちがとっても明るく変わりはじめました。やっぱり母親が生き死にを境にするのは子供にとっても、大変なことだったと思います。そこから解き放たれて、元気になってくれたんだと思って、子供にそんな風に言ったら、「お母さん違う、お母さんが変わったけんさい」と言われました。私は、意識をせずに自分が生きてるだけでいいと思ったことで、子供たちの存在そのものを認められるように変わっていました。それまではやっぱり、良い子であって欲しい。学校に行ったら良い成績であって欲しい。色んな良い子を求めながら、我が子に接してました。だけど、こうやって「おはよう」って当たり前のことを当たり前にやっていることがどんなに素敵なことかをこの事件を通して思ったときに、変わってたんですね。子供というのは、本当にいつも親との関係を見ながら生活してるんだなぁと、その言葉を通して思いました。親が変わったことをさっと察知できる子供たちです。すごいなぁ。私は心から謝りました。「ごめんねぇ、今までほんとうにあなた達、色んな嫌なことばっかり言いながら、お母さんの理想像にあなた達を合わせようってしながら育ててきて申し訳なかったね」。そしたら長男が、「お母さん、ぼくはお母さんの失敗作じゃないよ」と言ってくれました。子供たちはちゃんと、自分で自分を育てていたのです。「あぁ、そうか、私も思い上がってたなぁ、そうだよね、私は自分のことだけで良かったんだよね」と思いました。「私自身が生き生きと生きてることで、子供たちはそれを吸収して生きていけるんだなぁ」。
 この事件に遭って、ほんとうに大変だったんですねぇ、と言われるんですけども、こんな目に遭わなければこういう自分を感じれなかった、そんなおそまつな自分だったなぁ、と思っています。ただ、塚本先生と出会い、そういう一つの子供の見方や自分自身を振り返るチャンスをもらい、塚本先生からいつも肯定的なメッセージ、「あなたって素敵だよ」って口で言わなくても、先生とお話していることでそういうメッセージをいつもいつも頂くんですね。だから先生に会いたいと思ってお話に行ってました。そういう風に認められる経験をすることで、自分自身を認められ、他人を認められるように変わっていってました。そして、娘の不登校と向き合い、そしてこの事件に遭って、ほんとうに、色々、こういう大人だと良いとか、色んな付加価値が全部とれて、生きてるだけでいい、というメッセージを読み取る事が出来ました。この事件で塚本先生が亡くなられました。それはほんとに私にとって、とってもつらいことでした。「今の学校教育が間違っている、子供たちをほんとに大切にしていない、だけどこの田舎にいて私は何もできない、どうしよう山口さん」と投げかけられた時、「先生一人では教育なんて変わらないんだからしょうがないよ」と言ったこともありました。
 事件後、塚本先生の本が出ました。私は、先生に「やったね」と声をかけたいです。塚本先生は、以前から、幼児室で毎週出されてたお便りを、「これを本にしたいんだけど」とおっしゃってて、「じゃあ先生、これ送れるようにコピーしてくるね」と言って沢山のお便りをコピーしてさしあげたことがありました。もし、その時本にしても、全国の人に手渡せなかったかもしれない。だけど、この事件で、先生の命と引き換えに先生の思いは日本中に伝わっていったんじゃないかな、と思って、「やったね、そして、生きるてことと、死ということが、死んでもの言う人、生きてもの言う人、どっちもありだな、その死を無駄にしないために、私はこうやって生かされてるのかな」、あまりそういう風に意味付けはしたくないんですけども、そういう思いもあります。
 少年のご両親が見えたとき、私は、「親しかいないでしょ」てことを言いましたけど、その後、私はバスの中で、少年への思いをご両親に話しました。そしたらご両親は、少年にそのことを話してくださいました。少年は、「山口さんのその気持ちはわかってた。だけど、あの時ああするしかなかった」てことを言ったそうです。私は一言も少年と話していません。だけど、特につらさを抱えた子供たちっていうのは、つらさを抱えなくてもそうかもしれませんが、言葉ではないんですね。気でわかると思います。そのときの雰囲気で、どんな気持ちで自分に大人が向かっているのか、仲間が向かっているのか、てことをわかるんですね。その言葉を聞いて、とてもうれしかった反面、ほんとうに恐いなぁと思いました。私たちがほんとうにどういう風に子供たちと向き合って生きてるのか、ってことを、見据えられたっていうんですか、そういう風な思いがあります。
 ご両親もその後、「自分も仕事を辞めさせられ、誰からも電話が入らなくなって、お前の孤独がわかったよ」お父さんは少年に言ったそうです。少年はニコッと笑って、それまで食事も喉に通らなかったみたいですけど、「お父さん、今日からご飯食べるからね」って言ってくれた、ってことを私に伝えてくださいました。一番はやっぱり親の共感だと思います。ただ、親ができない時は他人でもいいんですね。ちっちゃい時は親じゃないといけないかもしれないけど、ある程度思春期位になった時は、誰か大人なり仲間に共感してもらうことで自分を育てて行けると思います。
 弁護士の大平光代さんも、自分が不登校になったときに親から認めてもらえなくて、自殺まではかって、それでも学校に行き続けなくてはいけない状況の中、みんなから死にぞこない、って言われ、自分の居場所がなくなり、仕方なく、不良少年のたまり場に自分の居場所を求めていかれ、最後はヤクザの奥さんまでなられて、それでもなかなか…、要するに、自分から逃げて生きてらっしゃったんですね。そこに、お父さんの友達の大平さんと出会って、「みっちゃん、あんたのつらかったのはわかる、だけど、そういう風に逃げて生きてるのは、自分を騙して生きてることやろ」と言われた時に、初めて自分のつらさをわかってくれる人がいた、そのことで「人間、ちょっと信じてもいいかな」と思ったってことを、一度講演でお聞きしました。ほんと、一人でいいんですね。そういう大人に私もなれたらいいなと思い、今、不登校の子供のフリースペースをやっております。そこを始めて三年目に入ったんですけども、子供たちってどんどん変わるんですね。二十歳まで家族以外の人と話したことのない青年が、私達のフリースペースに来てくれました。
その青年は、最初は下を向いて目も合わせない状態でした。そういう人ってのは、思いはたくさんあるんですね、だけど、ほんとに自分の心を開いていい相手だろうかと観察して、開いていいって確認できたときに、始めて心を開いてくれます。もう今は、どんどんおしゃべりもしてくれるし、アルバイトにも行き出しました。そういう風に、私達の居場所で変わっていける子供たちがいる、素敵だなぁ、と思って、今楽しく日々過ごさしてもらってるんですね。
 (話がいろいろ飛んで申し訳ないですけども)被害者の方が、なかなか色んな事件を受け止められない、ってことをおっしゃってたんですけども、私も実は、被害者であって、加害者の少年の側に立っています。事件後一年ぐらいは自分のことと亡くなられた塚本先生のこと、少年のことだけしか考えられなかったんですね。それが、ちょうど一年目で、NHKが報道番組を作って、流してくださったんですけども、他の被害者のことがわかったんですね。まだまだ立ち直れない人の声を聞いたときに、わたしがこう言ってる事で、おんなじ被害者同士を逆に責めてるんではないか、そういう風に思って、言うのを辞めようって思ったんですね。だけど、ご両親も「私達はちゃんと育ててきました」、精神科の病院も「ちゃんと治療をやって来ました」。学校側も「いじめはあってません」、そう言ってる時に、「じゃあ、少年だけが悪くてこういう事件になったんですか、そうじゃないでしょう」。だけど大人は口をふさぎました。私は、被害者には申し訳ないけど、少年側に立って、やっぱり、追い込んでるのは大人じゃないか、って事を言っていきたいと思い、一度あきらめたんですけども、やっぱり言って行く決心をしました。
 今色んな事件、最近も佐世保でほんとに大変な事件が起こりました。大人はカッターナイフをどうしようか、インターネットをどうしようか、そういう付加価値ばっかりに目を向けます。ほんとうにそうでしょうか。カッターナイフがあったからそりゃしたかもしれないけど、じゃあ、そうなるまでの心の動きは誰が責任持つの、本人が持つんですか、子供が持つんですか、子供は大人がいなくては育っていけません。それを子供はよく知っています。だから大人から嫌われないように、親から嫌われないように、必死で距離を取りながらやって、いっぱいいっぱいになったときに色んな事が起こってくるんじゃないかな、と思うんですね。それにいつまでも気付かないで、長崎の事件のときに、鴻池大臣が「親を市中引き回しにしろ」とおっしゃいましたよね。あれを言わせてしまってほんとうにいいんだろうか、あの大臣はキチンと謝罪をしなくていいんだろうか。たしかに親の責任です。だけど、国は親を子供から取り上げています。仕事をしなさい、保育園を沢山つくりますよ、そうやって親を子育てから離しながら、親の責任だと言っている。子育てってほんとは楽しいんですよね、それを苦しくしてるのは、今の学歴社会や知識偏重社会、いろんなそういう社会だと思います。そういう中で、親子で苦しみながら、保育園に預けながら、5時までに帰れないと子供は一人ぼっちでぽつんと待ってたりします。だけど仕事が忙しいと、首を切られない為にも6時でも7時でも残業していかなきゃいけないお母さんたち。ほんとうの支援ていうのは何かな、子育ての時は「3時で帰っていいよ」とかそういう、仕事をちゃんと外してあげて、子育てを出来る時間を確保してあげる事がほんとうの子育て支援ではないかなと思うんですね。そこのところを、国が間違ってるから、子育てが段々違ってきて、子供は誰を、どの大人を見て生きていけばいいのか、保育園ではこう言われ、家ではこう言われ、戸惑いながら、大人との距離を必死で取りながら生きていると思います。近所もなくなりました。私たちの頃は、近所の家に入り込んで、かくれんぼや鬼ごっこ、裏から表に通り抜けて「こんにちは〜、さよなら〜」と言って、そういう風にして育ててもらいました。今は、ボールが入っただけでも「なんばしよっとね、ガラスのわるっやろがっ」そう言う私たち大人です。子供はどこで育つんですか。子供はたくさん失敗してもいいんです。間違っていいんです。たくさんたくさん失敗した子ほど、きっと素敵な大人になっていくんじゃないんですか。その失敗をさせまいさせまいとして、今私たち親は、子供の生きる力を吸い取りながら「一生懸命育ててるんだよ」って言ってるんじゃないかな。そういう風に思います。もう一度ほんとうに、子供の命、子供の生きていく力、ってものを考えなきゃもっともっと大変なことが起こってくるんじゃないかな、と正直思ってます。子供たちを追い詰めないために、私たちは何が出来るんだろうか。私は、自分から始めるしかない、と思いました。私が出来ること、それだけはしよう。まわりの人と一緒に幸せを感じよう、楽しく生きていこう。出来ないことは出来ないんですね。出来ないことまでやろうとしたら、ほんとに苦しくなりますけど。
 長崎の事件の後に、私は長崎の五島に呼ばれて行ったんですけど、様子を聞いてみたら、お母さんたちが朝、学校に行って、子供たちに「おはよう」とあいさつ運動を始められたそうです。「なんとアホなことを」と正直思ったんですね。わざわざそんな、学校に出て行かないでも、朝、子供たちが学校に行く時間に庭や道路を掃除しながら、子供たちに「いってらっしゃい」その一言でいいと思います。わざわざ学校に行かなくても。「あいさつ運動が一番嫌いだ、わざとらしすぎる、日常じゃない」とうちの娘が言いました。「多勢の知らない人からおはようございます、と言われて気持ち悪い」。最初は子供も、ギョッとするかもしれないけど、一週間に二、三回でもいい、やってたら子供たち「あっ、ここのおばちゃんなんだな」と思い、「おはよう」って段々言うようになりますよ。ちょっと一言、二言「今日はお天気ね」、帰るときもしょぼんとしてる子には「なんかあったの」と声をかける、そういう当たり前の地域コミュニケーションが今一番足りないのかな。当たり前のことを当たり前にしていればいい事を、当たり前のことが当たり前じゃなくなってきたのかな、と思います。私はこの事件に遭ってから色んな事をやりだしたんですけど、各校区に民生児童委員と主任児童員という制度があって、主任児童員をしております。だからいろんな家庭を訪問させてもらいます。今ほんとに虐待が多いです。その虐待も、児童員として子供に接するのではなく、親をどうサポートするかを考えています。やっぱりみんな、孤立した子育ての中で大変な思いをしながら、我が子が本当に大丈夫だろうか、と必死の思いを抱えながら、良い子であってほしいというところで追い詰められて、虐待とまでいかないまでも、しつけと称して虐待をやっている親がいっぱいいると思います。そういう時に、「あなたのお子さん、ほらこんなところがとってもいい子だねぇ」とか「こないだ挨拶してくれたのよ」とか、子供のことをちょっと誉めてあげる事で、お母さんはものすごく楽になられるんですね。
  話が色々飛んで、まとまりがなかったと思いますけども、この事件にあって大変な分、私にとって、とっても大切な学びだったなぁと思っています。自分がつらい思いをした時に、ほんとにつらい思いの人の気持ちがわかるようになる。だから子供たちにも、失敗をしてもそこから立ち上がっていく自分の力を信じて、色んな事を経験していってほしいと思います。
 今を認めてあげることで、子供たちはどんどん育っていける、理想を全然求めなくていいんですね。ほんとに我が子から教えてもらった、「話を聞いてもらうだけでいい。答えは自分で出すから」。そのことしかないのかな。私自身もそうです。こうしたら、ああしたら、というアドバイスは、いやなんですね。それぞれ、みんな違うんですよね。それぞれ違う。だから私の考えをあなたに押し付けても、それは絶対違うんですよね。ただ、私はこうだった、ていうことは伝えられても、どう考えてどういう風に行動していくか、っていうのはその人に任せなくてはしょうがない。不登校の居場所(フリースクール)をしてたら、不登校のお母さんたちが、沢山お話に来てくださいます。「私はこうだったよ」てことは伝えられるけど、あなたに「こうしなさい」ってことは言えない。なかなか不登校を認められないというお母さんたちもたくさんいらっしゃいます。だけど、今そういう状態なんだね、と認めてあげないと、責める事になるんですね。その人の存在そのものを否定することになります。だから、「そうなんですね、大変ですね」と受け止めることをなるべく心がけながら、ほんとに、「聞いてもらうだけでいい、答えは、それぞれ一人一人が違う答えを出していく」。そして、それをお互いに認め合える社会になっていけたらいいかなと思います。
 どうも今日は、最後まで熱心に聞いて下さって、ほんとにありがとうございました。

講演後の交流会
 塚本先生が出された本、「お母さん、我が子の成長が見えますか」という本ですけど、先生が毎週出されていた会報を、長男さんがその中から抜粋されて出された本です。これを読んでたら、「難題が降りかかった時に、それをバネにして生きていける人間を育てたい」てことを書いてありました。私は「あぁ、やったね」って正直思ったんですね。この事件に遭ったけども、ほんとこの事件がなかったら、こうやって皆さんの前に立てる私じゃなく、普通の平凡な主婦です。それがこの事件に遭ったっていうだけで、こうやって皆さんの前で、お話させてもらえる、ということにびっくりすると共に、感謝をしています。

来講者の質問その1
 子供たちの社会の中で、この前のような事件(長崎の)は大きな事件でしたけども、日々学校の中で、また、近所の中でも小さいいさかい、ちょっとえんぴつで突つかれたりとか、そういう事は毎日起こっていると思うんです。そうやって、小さい意味でも加害者になる、被害者になる、そのような現実に対して、まわりの子供たちや親がどういう風な対応をしていけば良いと思いますか。

質問その1に対して山口さん
 私がフリースペースをしていてもそれはあるんですね。それでどうしようかなと思って、知り合いの精神科医に聞いたことがあります。加害者の子、被害者の子、別々のところでその子のやったことを認めてあげることが大事だと教えていただきました。実際うちも、みんな不登校の子なんだけど、その中でもそういうことがあるんですね。ある子は、人の悪口とかいたずらをしたりする事で自分を保ってるんですよね。される側はほんとにつらいだけなんですけど、それを見ながらその場では何にも言わないんですよね、「どっちにとっても必要なことなんだろうな」ていう風にどっちも受け止めて、そして後で、やった子には「なんであんなことやったの、なんかあったの」と聞く、やられた子には「大変だったね、よくがまんしてたね」と声をかける。そしたら「あぁ、ちゃんと自分を見てくれてたんだ」と子供が感じてくれてるんですね。実際段々元気に、その子なりに育ってくれてます。だからそれを見逃さない、見逃さないで、やられたときにすぐ対応していけば良いんじゃないかな、と私の体験上思いますけど。

来講者の質問その2
 その後、加害者の少年、加害者の保護者の方たちは今、山口さんとどういうような状況でいらっしゃいますか。

質問その2に対して山口さん
 最初(ご両親が家に)見えたときに、私は少年の状況を知りたいから、こうやって時々家に来て下さい、とお願いしました。そしたら、きちんとしたご両親で、時々来て下さってます。私はご両親に聞いたんですけど、加害者の親になるというのはものすごく大変な事なんですね。もちろん被害者も大変なんですけど、自分達に人権は何もなかったっておっしゃってました。要するに、「殺人者の親だということで、すべての人から虐げられたような形で生きてこなきゃいけなかった。その中で一人二人わかってくださる弁護士さんとかそういう方がいらっしゃったから少しは救われたけど」とそういう風なことを、私たちに話して下さいました。私自身は被害者でちゃんとカウンセリングを受けましたけど、加害者の親にカウンセリングはあるんだろうか、と聞きました。何もあってないんですね。じゃあせめて、私や弁護士さんがお話を聞いてあげることで、少しは楽になられるのかなと思ってるんですね。
 この間、こちらの新聞に載ったかはわかりませんが、示談を一応済ませたんです。私としては、示談の前も後も全然変わらない気持ちで、少年のご両親ということで、対等にお付き合いをさせてもらってたんですけども、やっぱり加害者の両親というのは、被害者がどう動くかわからないってことでなかなか心を打ち解けてくださらなかった部分があったと思うんです。示談が済んだ後見えたときは、ほんとうに心を開いて話してくださったから、すごくうれしかったです。少年のことも色々伝えてくださいます。少しづつですけど、彼もずいぶん力を得てるみたいですね。私は、加害者になるってことは、その前は被害者だったという考えがあります。色んな被害を受けて、ある時、加害者になる。だからその自分の被害性をまず埋めていかなければ自分のほんとの加害性を認められない、と思ってるから、少年を、「大変だったね」とまず受け止めて抱きしめてあげたいな、そして、あなたがそうしたことで私もつらかったのよ、ってことを語っていきたいなと思ってます。

来講者の質問その3
 この事件に関して、ご主人様はどういう風に山口さんをサポートされたり、今の活動を考えられたりされていますか。また、山口さんは少年法についてどう思われていますか。

質問その3に対して山口さん
 自分が被害者だとは正直思ってないんですね、どちらかというと加害者ではなかったかな、大人として、少年を追い込んでる加害者側の人間じゃなかったかな、と正直思ってるから、そういう風に思われたというのは、ちゃんと聞いてくださったなと思います。私は、事件に遭ったというのは同じ船に乗り合わせた、と思っているんですね。同じ船に乗り合わせた者同士で、癒していくというんですか、関係をもう一回きちんと作っていくことが大切なのかな、と思って、実際、まだ動きは出来てません。やっぱり色んな被害者の方がいらっしゃいますから、なかなか私が声を挙げることが出来なくて、精神科医が色んな人に関わってらっしゃるのでその方にお願いをして、少年が医療少年院から出てきてから、何か一緒に考えて行くことが出来たら良いかなぁって、色んな人の声をそれぞれに聞き合うということが良いかなと正直思ってます。
 夫の言葉ですね。夫は、私が「うらまない」って言ったら、信じられないって言いました。「おれは憎い。お前はどうしてそんなこと思えるんだ」と言いました。だけど、私と暮らしていくうちに、お前がそう言うならまあそういうことなのかな、ってことで、私の考えが主流を占めてきたというところで、夫のそういう恨みとかがずっと薄れていったってことがあります。夫に支えられてるというのは、今この挙げたとこにも書いてますけども(プリントを見せて)、ずっと付き添ってくれてました。それはただ側にいてもらうだけで、気が全然違いましたね。週に一回とか二回とか佐賀の仕事に戻って、後はほとんど病院の方にいてくれる、そういう状況で一ヶ月ぐらい広島で過ごしてくれました。その後、少年法改正の時に、私が東京の弁護士会に呼ばれて行ってお話をさしてもらって来たんですけど、そのとき私がものすごく落ち込んだんですね。「なんかしょうもないことベラベラしゃべってきて恥ずかしい」って夫に言ったら、夫が、「普通の主婦がね、そんなちゃんとしゃべるわけないやん。そういう場所に行って、話してきたことだけでも大したもんだ」って誉めてくれたんですね。それで、あっ、そうか、私は主婦だったんだよね、じゃああれで二段丸ぐらいかなっとか思ってですね、そういう風な支え方をしてくれてます。不登校の時は、やっぱり夫婦喧嘩もありました。離婚したほうが良いかな、と思ったときもありました。だけど、色んな事があって夫婦っていうのはこうやって続いていくんだなぁ、ていうのを思ってるんですね。何気なくちょっと寄り添ったり離れたりして。今はみんなその前の段階で「もう別れる」って言ってパッと別れてしまってるけど、も少し辛抱したら味が出てくるのにもったいないなぁ、ていう思いです。今、色んな相談受けたりするときも「離婚はすぐできるやん、がんばれる余地がちょっとでもあるなら、がんばってみたら」とかそういう言葉を言えるようになりました。前は「もう別れたいなら別れなさいよ」とパッと言ってたかもしれないけど、そういう夫婦の味って言うんですか、そういうことが五十過ぎて少しづつ、この事件を通してとか色んな事でわかってきたなぁと思ってます。
 少年法についてですけど、私も厳罰化は反対です。さっき言ったように、子供たちを育てている今の社会の問題を子供たちが知らせてくれてる、警笛を鳴らしてる、ただそれだけだと思うんですね。それを罰したからって減るわけじゃないし、罰があるからこんなことしないとか思うような子供は絶対いないんですね。命の側から、それをやらなければ自分の命が危ういからやってるだけのことだと思います。だから、少年法の低年齢化は反対だし、死刑も私は反対なんですね。ほんとうに死刑囚であっても、あの、永山則夫さん、死刑になられましたけども、自分がこんなこと起こしたのは貧しさ故だったていう、ちゃんと自己分析もなさって、貧しい子供たちの為に自分が何かできないか、てことでブラジルだったかどこかのストリートチルドレンの援助を、自分の本の印税でされたりしてます。「命というのを大切だと言いながら、国家が殺人をやっている」というのが死刑だと思うんですね。子供たちこそ、育ちなおしが何遍でもできる、思春期にも一回育ちなおしが出来るってことを、河合隼雄さんがおっしゃってました。そういう風に育ちなおしが出来る思春期を、少年法を下げて国が奪ってるんじゃないかな、と思ってます。

来講者の質問その4
 私も人間で、体調が悪かったり、いらいらしたときに、どうしても子供につらく当たってしまうことがあります、山口さんはどうなんですか。

質問その4に対して山口さん
私もそれはあります。だけどそれはそれで私は良いと思うんですよ。ただ、全体的に「お母さんは自分のことが大好きで愛してるんだ」というメッセージを与えてたら、そして、(自分だって神様じゃないんだから、人間だから)何か嫌なこととか自分の感情をぶつけたくなったときに、後でちゃんとフォローすればいいんですよね。「私はあなたが嫌いで言ったんじゃないのよ、お母さんちょっと疲れてて、ごめんね」そういうことをちゃんと伝えれば、「あっ、お母さんは疲れてたらこういう行動に出るんだ」ってことを子供はちゃんと学習しますので、大丈夫だと思います。理想的な親は絶対いません。私もほんとに悪い親をやってて、心から気付いた時に、それでも子供は自分で自分を育てて来た、っていう。ただ、そのことを知ってるのと知ってないとは違ってくると思うんですね。何かのとき、「大変だったね」と言える、そういう方法を知ってるだけでちょっと違った対応も出来ると思いますので、「本当に私もとってもとっても悪い親だったから、大丈夫ですよ」てどのお母さんにも言うんです、「大丈夫よ」って。
 何しても子供はお母さんのことが大好きだから、まずそこを原点に置いて、色んな嫌なことがあって、親らしくない行動をとった時でも、後で「ごめんね」と言っとけばいいんじゃないですか。「あの時はお母さん、こんなだったのよ」とか「きつかったからね」とか、そういうことをちゃんと言語化してあげることが大事じゃないかなと思います。

山口さんの感想
 最後までみなさん一生懸命聞いてくださって、ありがとうございます。一主婦がこういう風にしてお話さしてもらうってこと、みなさんこうやって受け止めてくださることを、感謝しています。
色んな事を経験してください。こわがらないでください。守らないでください。私は事件に遭うまで、「半歩下がって、右の人左の人を見て、人からなんて思われるか」そういうことばっかり気にして生きてきた、ほんとに小心者の私でした。今ももちろん、そうそう変われるわけじゃないですけど、「半歩前に出そう」そういう風に思って、自分の出来ることを進んでやるようにしてます。もし、私のこの話にちょっとでも心がふれた方がいらっしゃったら、ほんのちょっとで良いから、前に進んで社会に参加して、自分だけのことではない、お隣の人とか考えて相手の身になって行動してくださったらありがたいと思います。
 今日はほんとにどうもありがとうございました。
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