平和の使徒推進室室長の部屋

「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
     ―アウシュヴィッツを訪ねて―


 10月16日(土)、アウシュヴィッツ強制収容所跡地には、細い細い霧のような雨が降っていました。
 中部ヨーロッパの秋の深まりを感じさせる黄葉した林に囲まれたのどかな田園風景の中に、「負の世界遺産」は存在していました。

 一番印象的だったのは、収容所が閉鎖されてから60年近く経った今、高く育ったポプラ並木の静かな美しさでした。
 想像を超えた残虐な行為を実行している人間が、ポプラの木を植えようと考える、二つの行為の間にある落差をどう受けとめたらいいのだろう。矛盾を内包した人間存在の現実を目の前につきつけられました。
 アウシュヴィッツは、人間とは何かを徹底的に考えるためのヒントや暗示がいっぱい散りばめられている稀有な場所です。それだからこそ、ヒロシマの原爆ドームと同じように「世界遺産」に認定されたわけです。

 強制収容所を体験し生き延びた心理学者ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」の中に次のような文章があります。

 「ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいたときに、突然、仲間がとびこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
 わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
 「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
 (ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」新版、池田香代子訳、みすず書房)

 底知れない人間の深い「闇」と美しい自然のコントラスト。

 アウシュヴィッツ収容所では、多い時には、一日7000人もの人がガス室に送りこまれました。死体の処理が追いつかず、野焼きにされました。
 わたしたちを案内してくれたガイドは、ここは、「歴史」という前に「墓場」といわなければならないと語っていました。

 毎日、多数の見学者がアウシュヴィッツを訪れます。ドイツ語が、ロシア語が、英語が、イタリア語が、中国語が、日本語が、ポーランド語が、聞こえてきます。かつては、互いを敵とし戦争をした国々の人々が、今は、人間はなにをしてきたかを学ぶために、同じ時に同じ所に共存しています。
 あの時より人類は進歩したのでしょうか。

 アウシュヴィッツ強制収容所は、当初は、軍事施設を改築したポーランド人のための収容所であり、建設構想は反ナチズムのポーランド人で充満した刑務所の状態を解消する目的で1939年末に生まれていました。
 最初の囚人は、1940年6月14日に輸送されてきました。
 初めは、ヒトラー・ドイツの敵として「政治的違反」のために拘束されたポーランド人、ロマ(ジプシー)の人々や障害者などの反社会的分子と見なされた人々が収容されましたが、次第に、ユダヤ人だから、ただそれだけの理由で、恐るべき集団殺人の組織と機構をもつアウシュヴィッツ収容所に送られ、或いはガスで殺され、或いは餓死していったのです。

 どうして「アウシュヴィッツ」は起こったのでしょうか。
 わたしは、「排除の論理」ということを考えます。
 自分と異なるものを全て排除しようとする動きとメカニズム。
 理由があって、また理由もなくて、一人の人間が目の前に立っているもう一人の人間を、どうしても、イエスの福音が説くようには「隣人」として受け容れることができない時、心理的にも物理的にも、その人を抹殺してしまいます。
 ガス室に送りこむことにも、自爆テロに身を投じることにも、大量破壊兵器を使うことにも、なんの責任も感じることはないでしょう。「いのちへのまなざし」が完全に欠如してしまいます。
 「わたしがあの人の代わりに死にます」と申し出たコルベ神父の行為は、「排除の論理」の対極にあるものです。

 Et lux in tenebris lucet
 光は闇に輝く

  ※「アウシュヴィッツ」は、ポーランドでは、「オシヴェンチム」(「広辞苑」岩波書店)
   と呼ばれます。

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