平和の使徒推進室室長の部屋 | |||
「祈りの人・平和の人」ヨハネ・パウロ2世 「今日、ローマのペトロの座に、ローマ人でない司教が登ります。ポーランドの息子である司教が。」(1978年10月22日、教皇就任式の演説) カロルは1920年5月18日、ポーランドの古都クラクフから50キロ離れた小さな町バドビツェで、カロルと同じ名前の父と母エミリア・カチョロフスカとの次男として生まれました。 故教皇と共に神学校時代を過ごした一人の友人は、当時のことを次のように語っています。 1946年11月1日、カロル・ボイチワは司祭に叙階されました。26歳の若さでした。 後に教皇ヨハネ・パウ2世になるカロル少年誕生の地の近くには、強制収容所が設置されたアウシュビッツがあります。教皇自身にもユダヤ人の友人も多く、収容所に送られた人もいたといわれています。自らも、ナチスの追及から隠れ、地下神学校で聖職者への道を歩み始めました。即位後、初の里帰りではアウシュビッツ収容所を訪れ、声を放って泣かれたそうです。 幼少期から青年時代までの家族をめぐる生活体験、ナチスによる母国ポーランドの占領とユダヤ人虐殺などの悲惨な戦争体験が、ヨハネ・パウロU世のそれ以後の生き方の核となり原動力となるものを培ったのです。祈りの人。信念の人。平和の人。 1958年、教皇ピオ12世からクラクフの補佐司教に、1964年、教皇パウロ6世によりクラクフの大司教に任命され、1967年、枢機卿に親任されました。 ヨハネ・パウロ2世の生き方を想うとき、もうひとつ大切なこととして挙げたいのは、第二バチカン公会議で「現代世界憲章」の起草に重大な役割を果たされたということです。 「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事がらで、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない。」(第二バチカン公会議「現代世界憲章」1) この「現代世界憲章」の冒頭のことばは、神に召された教皇の生涯と思想の核心を象徴しています。 1978年10月16日、ボイチワ枢機卿は、第264代教皇に選出され、1981年2月25日、人類史上最初の被爆地広島を訪問され、全世界に向って「平和アピール」を発表されました。 “ Ego cogito cogitationes pacis, et non afflictionis “ dicit Dominus これは、預言者エレミヤのことばの引用だと思われます。 父なる神の「平和の計画」のために働くしもべとして選ばれ、生涯を懸けて使命を全うしたヨハネ・パウロ2世の永遠の安息を祈るとともに、わたしたちが教皇の遺志を継承し、「平和の使徒」として生きていく恵みと力が与えられるよう祈りましょう。
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