平和の使徒推進室室長の部屋 | |||
Santa Maria no go‐zo wa doko?
これは、1865年3月17日、後に歴史的事件として記録されることになった長崎信徒発見の出来事を、横浜のパリ外国宣教会日本管区長ジラール神父に報告する翌3月18日付けのプチジャン神父の手紙のことばです。 今年は、長崎信徒発見140周年の記念すべき年です。 キリシタン発見という宗教的大事件は、日本におけるキリスト教宣教の新しい時代の夜明けを告げるものでした。キリシタン禁制時代の重い沈黙を破って多くの信徒たちが名乗り出てきました。 5月3日(火)、津和野では、今年も盛大に「乙女峠まつり」が祝われました。 「政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的であった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈服しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の『我』の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い軌跡を残した。 「浦上切支丹の『旅の話』は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められた卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり『人間』の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しく抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。」(3) (1)片岡弥吉「長崎のキリシタン−信者発見物語−」信者発見百周年実行委員会、80頁 |
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