平和の使徒推進室室長の部屋

「国家と差別」

 7月1日(土)午後2時から、広島カトリック会館(世界平和記念聖堂)で、シンポジウム「ハンセン病国賠訴訟からみる国家と差別」が開かれます。
 シンポジストは、玉城シゲさん(国賠訴訟原告・国立療養視所星塚敬愛園)、藤野 豊さん(ハンセン病市民学会事務局長・富山国際大学助教授〔日本近現代史〕)、谷 大二さん(カトリックさいたま教区司教・日本部落問題委員会委員長)の三人です。

 2001年5月11日、熊本地方裁判所は「癩予防法」に基づく国によるハンセン病患者の強制隔離政策を憲法違反とする判決をくだしました。
 「遅くとも昭和35年以降においては、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われたというべきであるから、厚生省としては、その時点において、新法(※1953年改正の「らい予防法」)の改廃に向けた諸手続きを進めることを含む隔離政策の抜本的な変換をする必要があったというべきである。」

 ハンセン病は非常に古くから人類とともにありました。
 日本でも「癩」と呼ばれ、「業病」「天刑病」とされ、差別や偏見や排除の対象になりました。
 一方では、「血脈」に伝わる遺伝病とみなされ、他方では、「感染」による伝染病とみなされ、矛盾する二つのイメージが社会の中に定着していきました。
 
 明治政府は、1907(明治40)年「癩予防ニ関スル件」を公布し、隔離政策が始められました。
 1931(昭和6)年、内務省衛生局は、全患者の隔離収容を目指す「らい予防法」(旧法)を制定しました。
 1946(昭和21)年に公布され、翌年施行された「基本的人権の尊重」をうたう日本国憲法のもとにおいても、厚生省は、絶対隔離政策を推し進めました。
 1953(昭和28)年、「らい予防法」(新法)が制定され、1996年まで維持されました。

 「人間の尊厳」を根底から踏みにじるものの例として、日本のハンセン病政策が、隔離・絶滅を基本理念としたために、療養所に収容された人には、妊娠・出産が認められず、人工妊娠中絶や断種手術が強制されました。
 今、実態が問われている「胎児標本」の問題につながるものです。

 熊本地裁の判決文が述べるように、「隔離の必要性が失われた」後にも法律を存続させた国の違憲行為を検証する必要があります。
 そして、ハンセン病患者の社会からの絶対隔離と強制収容は、国が中心となって進めたことが一番のポイントであること、国家によって差別が行われたことを、今回のシンポジウムで学びたいと思います。

 *参考文献
  「差別とハンセン病 「柊の垣根」は今も 」畑谷史代 平凡社新書
  「いのちの歴史をかえりみて 尊厳回復へ」日本カトリック部落問題委員会

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