平和の使徒推進室室長の部屋
 御復活おめでとうございます。
「私はただ十字架の上で死なれた、そして『新しい人』となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えを広めるよう励まされたということを人間の歴史でなにより大切に思っています。」(大江健三郎「『新しい人』の方へ」朝日新聞社.179ページ)大江健三郎さんの言葉です。肥塚神父
 イエス・キリストの復活が人間の歴史では何より大切だと語られるのです。「私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅い」と言われる大江さんの言葉だから、余計に重みを持って響いてきます。大江さんは次の世代を担う若い人たちに「新しい人」になってもらいたい。少なくとも「新しい人」になることを目指してもらいたいと熱っぽく訴えます。この十年ほど、それこそ泳いでいる間にも繰り返しつぶやいてきた言葉だそうです。大江さんが「新しい人」と言う言葉に出会ったのは「新約聖書」のパウロの「エフェソの信徒への手紙」の中でだったと書かれています。それはこの言葉だと思います。「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の間において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章14−16節)
 大江さんが強調される「新しい人」のイメージは「何より難しい対立の中にある二つの間に本当の和解をもたらす人」です。そしてイエス・キリストが十字架に関わって死ぬことで、対立する二つを一つの体とし、「新しい人」に造り上げ、本当の和解をもたらしたことを大切に思っておられます。
 私たちキリスト者は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信仰の中心と信じるだけでなく、「主の復活の証人」として日々の生活の中で具体的に復活したイエスを証ししていく呼びかけを受けています。また、広島教区は、平和の福音の宣教師「平和の使徒」となることを特別な固有の使命と受けとめています。「十字架にかかったイエス・キリストをモデルにして」「『新しい人』になるほかないのです」と促す大江健三郎さんに応答して、「新しい人」を目指すことが「平和の使徒」になる努力につながります。
 今年の復活祭を祝った私たちが、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」(コロサイの信徒への手紙3章9−10節)「主の復活の証人」として働くことができますように。
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